サイレン

 サイレンが遠く鳴っている。彼の住む街は静かで、電話の向こうのあれこれの気配がわたしに届く。たぶん二人乗りの自転車の楽しそうな話し声が通り過ぎていくときには、わたしは舌打ちをする。彼のアパートの前には一組の家族が住んでおり、休日には子供たちと父親の遊び声が響くから、わたしは舌打ちをする。時には隣の部屋から、どうせたわいもない、喧嘩の大声が聞こえる。わたしは舌打ちをする。
 わたしは舌打ちをする。わたしが望んだものに、わたしは舌打ちをする。
 他に何をできるというのだろう。
 もちろん彼にも聞こえているだろう。彼は何も言わない。彼は何も悪くはないが、何か言う資格もない。与えないことは奪うことと同じではないが、全く別のことでもない。
わたしは舌打ちをする。他に何をできるというのだろう。
 彼が失ったものについて考える。自分が失ったものを、誰かに与えることはできるだろうか。誰かに与えることができないものを、誰かに望むことは許されるだろうか。そういう考えを彼に話すことはない。不毛だ。
 月が大きく空気は冷たい。サイレンは遠く消えていく。
 口は当たり障りのない話題を続けている。それは不毛ではない。他にどうしようもないのだから、それが最善なのだ。出しっ放しにしてある薬を一錠ぷちっと取り出して口に放り込み、これもいつも置いてあるコップの水で流し込む。淀みなく当たり前の動作で。
 彼らは人生に勝ち負けなんてないと微笑むので、わたしはええその通りですねと微笑みを返す。頭の中に舌打ちが響く。遠く消えていくサイレンが妙にはっきりと聞こえる。わたしはいま彼と話しているので、彼らの声など聞こえない。彼の声は優しく、彼の心はここにはない。
 与えないことは奪うことと同じではないが、全く別のことでもない。わたしは何も悪くはないが、何か言う資格もない。わたしは舌打ちをする。他に何をできるというのだろう。
 彼の声は優しく、サイレンは遠く消えていく。いつまでも消えずに、遠く消えていく。