桃缶シロップ

「でも先生。その病名を受け入れて、そのお薬を飲んで、そうしたらわたしの現実をやり直せるのかしら?」

 何軒目かの病院で、何人目かの先生に、何個目かの病名を聞かされて、見慣れたものやはじめて見るものや、何種類かの薬の説明を聞き終えて、先生の呼吸が隙間を見せた瞬間、わたしは、毎日持ち歩いていたその台詞を、すぱっと割り込ませてしまった。

 例えば、ある一年間の記憶をきれいに掃除してしまうような、そんな薬があったら、あるいは。
 事実は何も変わらなくても、わたしの現実は一変するだろう。
 でも、そういうことじゃない。なかったことにしたいわけじゃない。
 どんな薬も、どんな言葉も、いまのわたしを変えることしかできない。わたしが望んでいるのはそういうことじゃなくて、あのときの事実を書き換えたいのだ。あのときのわたしの選択を。

「過去のことは、もうどうにもなりません。薬や、医者や、あなたにできるのは、これからの現実のことだけです」

 答えは、すぱっと返ってきた。先生も、その答えをいつも懐に忍ばせているのかもしれない。

 だからたぶん、わたしの病気は、とてもありふれたものなのだ。程度の差こそあれ、誰もが経験するような。風邪をこじらせたくらいのことなのかもしれない。
 でも、だとすれば、家でおとなしく寝ていれば、いつか治るのだろうか。わたしは、大人になってから、風邪で病院に行ったことなんてない。プリンやヨーグルトや桃缶を食べて、薬を飲んで、眠り続ければ、治るのだろうか。ああ、やっぱり薬は必要なのかもしれない。

「先生、じゃあとりあえず、その病名でいいわ。お薬をちょうだい。ありがとう、また来ます」

 すうっと力を抜いた、得意の笑顔で、わたしは話を打ち切った。
 もちろん、先生はこんな投げやりな答えに納得してはいないだろう。しかし、そろそろ時間切れだということも、わたしは知っているのだ。先生、次の人が待ってるわ。

 薬をがさしゃか鳴らしながら、弾むステップで家路を進む。コンビニを見かけたので、プリンとヨーグルト、あと桃缶を買った。部屋のカーテンを開けると、ちょうどよい夕暮れだ。夕食、桃缶、寝る前にお薬。繰り返し、繰り返す。

 でも先生。この病名を受け入れて、このお薬をちゃんと飲んで、そしていつかこの病気が治っても、それがどうしたっていうの?

 黄色い桃をはむはむ食べ終えたら、くちびるを切らないように注意深く、缶のふちに口を付けて、シロップを飲む。
 とろりと甘い幸せを、金属の匂いがぎゅんと突き抜けていった。